「疑わしきは被告人の利益に」、「疑わしきは罰せず」、「推定無罪」という言葉がありますが、これらは犯罪の立証(合理的な疑いを入れない程度の証明)がない場合、被告人を無罪とすべきであるという刑事裁判の原則を表すものです。
いわゆる「紀州のドン・ファン事件」において、令和6年12月12日、和歌山地方裁判所が須藤早貴被告に無罪判決を言い渡したのも、犯罪の立証がなされていないと判断されたことが理由ですが、この裁判でポイントとなったのが「反対可能性」です。
本稿では、刑事裁判における反対可能性を中心に、紀州のドン・ファン事件をについて解説します。
目次
刑事裁判における犯罪の立証方法
検察側のストーリー
刑事裁判における犯罪の立証責任は検察官にあります。
そのため、検察官は、被告人の供述や証拠をもとに、犯罪や犯行に至る経緯・状況等について、ストーリーを組み立てます。
例えば、検察官が以下のようなストーリーを組み立てたとしましょう。
夫Aと妻Bは、一軒家に2人で同居していた夫婦である。
BはAの家庭内暴力に悩まされており、Aに離婚を求めていた。
ある日、AとBは離婚のことで口論となり、BはAの胸を包丁で刺し、殺害した。
反対可能性
「反対可能性」とは、被告人を有罪とすることに対し反対の事実が存在する可能性のことをいいます。
上記AとBの事例において、いくつか反対可能性を挙げてみます。
①自殺の可能性
②B以外の第三者が殺害した可能性
③Aを殺害する動機がなかった可能性
検察官の立証
紀州のドン・ファン事件のように、犯罪の直接証拠(例えば、被告人が被害者を殺害している防犯カメラの映像等)がない場合には、状況証拠により犯罪の立証を行うことになりますが、状況証拠のみの立証においては、反対可能性がないことを立証することが非常に重要になります。
上記AとBの事例において、検察官が反対可能性を排除するための立証として考えられるものを挙げてみます。
①自殺の可能性
- 胸を複数回刺した跡があった(証拠:検死結果)
- 亡くなる直前に会社の同僚らと旅行に行く予定を入れていた(証拠:同僚とのLINE・航空券やホテルの予約履歴)
- 遺書が発見されていない(証拠:通報後の実況見分調書)
→複数回包丁で自らを刺すことは考えにくく、自殺の動機も見当たらないため、自殺という反対可能性はない
②B以外の第三者が殺害した可能性
- 死亡推定時刻前後に被害者宅を訪問したものはいない(証拠:インターホンの録画履歴)
- 凶器は自宅にあった包丁でAとB以外の指紋は確認されなかった(証拠:鑑定結果)
- 警察に通報したのはB(証拠:通報の際の録音データ)
- 自宅は戸締りがなされていた(証拠:事件発覚直後の実況見分調書)
→第三者が存在した痕跡が確認できず、第三者がAを殺害した可能性はない
③Aを殺害する動機がなかった可能性
- BはAの家庭内暴力に悩んでいた(証拠:警察への相談記録)
- BはAに離婚を求めていたが、Aが離婚を拒否していた(証拠:家庭裁判所の離婚調停の記録)
→Aを殺害する動機はあった
紀州のドン・ファン事件の場合
上記AとBの事例のような場合、検察官が反対可能性を排除する立証ができているといえるため、直接証拠がなくても、犯罪の立証がなされているとして、Bに有罪判決が下される可能性が高いでしょう。
一方で、紀州のドン・ファン事件では、無罪判決が出されました。
無罪判決が出された大きな理由の1つが反対可能性を排除する立証がなされていなかったことです。
以下、紀州のドン・ファン事件における検察側のストーリー・反対可能性・判決の内容を確認していきます。
検察側のストーリー
被害者である野崎氏と須藤被告は、婚姻していたが、野崎氏が須藤被告との離婚を求めるようになり、離婚すれば野崎氏の遺産を相続できなくなると考えた須藤被告が、自ら覚醒剤を入手し、何らかの方法で野崎氏に致死量の覚醒剤を摂取させ殺害した。
反対可能性
自殺の可能性
検察官は、野崎氏の会社の従業員や知人の証言から、野崎氏が死んでしまった愛犬のお別れ会を楽しみにしていたことや通院の予定があったこと等を証明し、自殺の可能性はないと主張し、裁判所も自殺の可能性はないと判断しました。
第三者による犯行の可能性
検察官は、野崎氏が死亡した当日、被害者宅にいたのは、野崎氏、須藤被告、家政婦であったが、被害者が死亡した前後の時間帯には、家政婦は外出しており、その他の第三者の存在も確認できないことを立証し、裁判所は須藤被告以外の第三者による殺害の可能性はないと判断しました。
須藤被告が覚醒剤を入手していない可能性
検察官は、須藤被告が覚醒剤を入手したことを証明するために、須藤被告と連絡を取り合っていた覚醒剤の売人を証人として申請しましたが、売人のうち1人は「覚醒剤ではなく氷砂糖を渡した」、もう1人の売人は「目視で本物の覚醒剤だと確認した」という証言をしました。
裁判所は、「氷砂糖を渡した」という売人の証言を信用できないとしながらも、「被告人が受け取ったものは、覚醒剤ではなく、氷砂糖であった可能性も排除できない」と判断しました。
すなわち、検察官は、須藤被告が覚醒剤を入手していないという反対可能性を排除できなかったということになります。
被害者自身が覚醒剤を摂取した可能性
裁判所は「被害者が覚醒剤を誤って過剰摂取した可能性を否定できない」と判断しました。
前述のとおり、検察官は、須藤被告が覚醒剤を入手して野崎氏に摂取させたというストーリを組み立ていましたが、前提となる須藤被告が覚醒剤を入手していないという反対可能性を排除することができず、須藤被告が野崎氏に覚醒剤を直接摂取させたことを立証できなかったことから、「野崎氏が覚醒剤を誤って過剰摂取した可能性」という反対可能性も排除できなかったことになります。
須藤被告に殺害の動機がない可能性
検察官は、多額の遺産を得るために殺害する動機があったというストーリーを組み立てていましたが、裁判所は、配偶者として直ちに億単位の遺産を相続できることが「殺害する動機になり得る事情である」とした一方で、「当時、離婚や月々の現金支給(月額100万円)の打ち切りのおそれが現実化していたとは認められない」として、野崎氏を殺害する明らかな動機があったことを否定しました。
無罪判決のポイント
紀州のドン・ファン事件で無罪判決が下されたポイントは、上記のとおり、検察側が反対可能性を排除する立証をしきれなかった点にあります。
具体的には、検察官が、須藤被告が覚醒剤を入手していない可能性、被害者自身が誤って覚醒剤を過剰摂取した可能性を排除する立証をできなかったことになります。
検察官は、須藤被告がインターネットで「覚醒剤死亡」、「覚醒剤過剰摂取」、「老人完全犯罪」などのキーワードで検索をしていたことを証拠として提出しました。
確かに、一般的な感覚からすると、須藤被告が覚醒剤の摂取により野崎氏を殺害しようとしていたことを強く疑わせるものではありますが、この点については、弁護人が述べていた「薄い灰色をいくら重ねても黒にならない」という主張が的を射ており、須藤被告が覚醒剤を入手したことや野崎氏に覚醒剤を摂取させたことを直接証明できる証拠とはいえず、裁判所も同様の判断をしています。
控訴審の展望
和歌山地方裁判所の判決に対し、検察側は控訴をする可能性が高いと思われます。
検察官が控訴した場合、以下の点がポイントになると思われます。
追加の立証は困難
前述のとおり、今回の無罪判決は、検察官が、須藤被告が覚醒剤を入手していない可能性、被害者自身が誤って覚醒剤を過剰摂取した可能性を排除できなかったことが主な理由です。
もっとも、検察官は、28人の証人尋問を行うなど、できる限りの捜査と立証を行ったと考えられ、また、被害者の死亡日が2021年(令和3年)4月28日と時間が経過していることから、新たな証拠が発見されたり提出される可能性は極めて低いと考えられます。
法的評価が結論を分ける重要なポイント
検察官からの追加の立証が困難であれば、控訴審においても和歌山地方裁判所の判決が維持される可能性が高いかというと、そのようなことはありません。
前述のとおり、和歌山地方裁判所は、①須藤被告が覚醒剤を入手していない可能性と、②被害者自身が誤って覚醒剤を過剰摂取した可能性を否定できないことを主な理由として、須藤被告に無罪を言い渡しています。
しかし、上記①・②の判断は、検察官の主張と証拠に法的評価を加えた上でなされたものですので、主張と証拠の評価次第では、逆の結論もあり得るのです。
須藤被告が覚醒剤を入手していない可能性の評価
裁判所は、売人の「氷砂糖を渡した」という証言は信用できないと判断しています。
その理由は、自らが覚醒剤取締法違反の罪に問われる可能性があるため、「氷砂糖を渡した」という虚偽の証言をする動機があるからです。
しかし、売人は覚醒剤取締法違反の罪に問われる可能性があるため「氷砂糖を渡した」と証言をした→実際は覚醒剤を渡していたという事実認定も可能です。
また、「氷砂糖を渡した」と証言した売人から覚醒剤らしきものを受け取った売人は「本物の覚醒剤だった」と証言していることからすると、須藤被告が覚醒剤を入手していたはずという事実認定も可能ということになります。
被害者自身が誤って覚醒剤を過剰摂取した可能性の評価
致死量の覚醒剤を摂取する場合、強烈な苦味を感じることから、誤って過剰摂取をすることはあり得ないという評価や、知人の証言等からこれまで被害者が覚醒剤を使用していなかったことからすると、被害者自身が覚醒剤を摂取した可能性は低いという評価も可能です。
このような評価を前提とすれば、被害者自身が誤って覚醒剤を過剰摂取したという反対可能性はないという判断も十分にあり得ることになります。
動機は大きな争点とならない可能性が高い
殺害の動機については、和歌山地方裁判所も、一定の動機があり得ることは認めており、また、客観的に見ても、多額の遺産を得る(離婚が成立すれば遺産は一切取得できない)という殺害の動機が認められることは明らかであるため、殺害の動機は控訴審では大きな争点とならないと思われます。
裁判員裁判と職業裁判官の違い
和歌山地方裁判所での裁判は裁判員裁判であり、裁判員の意見が尊重された可能性があります。
一方で、控訴審(大阪高等裁判所)での裁判は、裁判員裁判ではなく、いわゆる職業裁判官のみが審理を行います。
裁判員裁判における評価と職業裁判官のみの評価では、各争点に対する評価が分かれる可能性は十分にあり、控訴審では逆の結論となる可能性があると思われます。
まとめ
前述のとおり、和歌山地方裁判所の判決に対しては、検察側が控訴をする可能性が高いです。
控訴審においては、反対可能性について、評価が分かれる可能性がありますが、袴田事件の再審・無罪判決があったことも踏まえ、冤罪を生まないために、裁判官による慎重な審理・判断が求められるでしょう。